重箱の隅をつつくように

かつて教育実習の時に教材研究してたら気づいた小ネタ。

某Y出版社・改訂版世界史B用語集より引用↓

李元昊(りげんこう)7 1003~48 西夏の初代皇帝(景帝,在位1038~48)。宋・遼と対抗しながら建国し、宋の制度や文物を取り入れた。 1044年には宋と慶暦の和約を結び、臣下の礼をとり、宋から銀5万両・絹13万匹・茶2万斤を歳賜として受けた。

あれ?李元昊って諡号は景帝だったかな?と思い、google先生に聞いてみる。

  …あるぇー?(・3・) でも疑惑が払拭しきれないので、中央研究院から原典を引っ張ってみる。

『宋史』卷四百八十五 列傳第二百四十四 外國一 夏國上 元昊以慶曆八年正月殂,年四十六。在位十七年,改元開運一年,廣運二年,大慶二年,天授 禮法延祚十一年。謚曰武烈皇帝*1,廟號景宗,墓號泰陵。宋遣開封府判官、尚書祠部員外 郎曹穎叔為祭奠使,六宅使、達州刺史鄧保信為弔慰使,賜絹一千匹、布五百端、羊百口、麪 米各百石、酒百瓶。及葬,仍賜絹一千五百匹,餘如初賻。子諒祚立。

諡号は武烈皇帝、廟号は景宗……こりゃ混同したな。

*1:ついでに調べてみると同じ諡号を持つのは孫堅のみだった

『論語鄭氏注』のあれこれ

 所属してる研究会で訳注稿を作っていましたが、そのうち私自身が書いたものをちょっと補いつつあれこれを書いてみます。

論語』「學而」第一 第十章 

子禽問於子貢曰、夫子至於是邦也、必聞其政。求之與、抑與之與(1)。子貢曰、夫子温、良、恭、儉、讓、以得之。夫子之求也、其諸異乎人求之與(2)。

(1)《集解・鄭玄注》 鄭玄曰、子禽、弟子陳亢也。子貢、弟子、姓端木名賜、字子貢也。亢怪孔子所至之邦、必與聞其邦政。求而得邪、抑人君自願與爲治邪。

(2)《集解・鄭玄注》 鄭玄曰、言夫子行此五徳而得之、與人求異。明人君自願與爲治也。

 

 ■「必與聞其邦政」の「邦」字について  

論語集解』校点本及び、月洞譲氏の『輯佚 論語鄭氏注』において、当該部分は「必與聞其政」と記されています。しかし、皇本・ケイ本は「必與聞其政」と作っています。また、『敦煌論語集解》校證』においては、「邦」字が省かれていることについて、色々考えてみます。

 そもそも、「邦」「國」二字について、鄭玄は『周禮』天官「大宰」の注において、 

「大曰邦、小曰國。邦之所居亦曰國。(大なるを邦と曰ひ、小なるを國と曰ふ。邦の居る所も亦國と曰ふ。)」

と両者の違いを述べています。 また、『漢書』「高帝紀」の荀悦の注では、

「諱邦、字季。邦之字曰國。(諱は邦、字は季。邦の字を國と曰ふなり。)」 

とあり、その顔師古の注では、

「邦之字曰國者、臣下所避以相代也。(邦の字を國と曰ふとは、臣下の避けて以て相ひ代ふる所なり。)」

 

とあることから、漢代では高祖劉邦の諱である「邦」字を避諱する際の代字として「國」字が使われたと判断できます。

 高祖の諱を避けた実例として、鄭玄と同時代の人である後漢末期の大儒・蔡ヨウらが中心となって霊帝期に作られた「熹平石經(漢石經)」が存在します。 熹平石經は四書五經を石に刻んで太學の門外に建てさせたものですが、そのうちの『論語』の經文内において、「邦」を「國」と改めています。そのことから、同様に後漢末を生きた儒者・鄭玄も同様に諱を避けて注を記した可能性は高いと考えられます。

 その一方、『論語集解』を撰した何晏の生きた魏は、後漢を倒して成立しました。前漢を倒した王莽の新が、前漢の皇帝の避諱を改めさせたように、漢代の避諱を改めた上で『論語集解』を編纂したという見方もでき得るでしょう。

 そのため、皇本・ケイ本において「國」字と作られるのは何晏の『論語集解』に加え、両本の編纂の段階で既に佚書となりつつある『論語鄭氏注』を踏まえての校勘であるという可能性もあります。  しかし、当該部分直前の「孔子所至之邦」の「邦」字については、いずれの版本においても避諱によって改められていません。そもそも避諱の判断基準は定まっておらず、明確な結論を出すことは難しいこともあるため、鄭玄自身が振った注を現存の史料から確定することは困難でしょう。